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日本の主な対外戦争1

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呼称 白村江の戦い
参加国 倭、百済 唐、新羅
動員兵力 4万7000余 不明
勝敗 敗北 勝利

当時朝鮮半島は三国時代で、高句麗、百済、新羅が相争っていました。その中でも新羅は高句麗と百済に押され気味。そこで新羅は唐と手を結んで朝鮮半島の統一を企図しました。

一方、唐にとっても高句麗は隋時代からの宿敵。隋の煬帝は4度に渡って大軍で高句麗に侵攻するもことごとく失敗し、これが直接の切っ掛けとなって滅亡したほどです。そして唐も、3度にわたる侵攻に失敗していました。

そこで、唐としては新羅と手を結ぶことで南北から高句麗を挟撃し、高句麗打倒の悲願を達成することにしました。

両国の利害が一致し、何度目かの百済による新羅への侵攻の際、唐は新羅の救援要請を受けて大軍で百済へ侵攻。そして新羅と協力して百済を滅ぼしてしまいました。

新羅には唐という味方がいたのと同様、百済には倭という味方がいました。国は滅びたものの、百済の王子扶余豊璋が倭に滞在中で、百済の遺臣たちは倭にいる扶余豊璋を立て、倭に援軍を請うて百済を再興しようと画策します。

当時の倭は中大兄皇子が実質的な最高権力者であり、彼の意向で百済救済の出兵を決定。斉明天皇が親征して九州まで軍を進めますが、急死。中大兄皇子が即位して天智天皇となり、引き続き朝鮮半島への出兵計画を進めます。

倭は軍を三波に分けて朝鮮半島へ上陸。先遣隊は扶余豊璋を同伴し、百済の残党と共に駐留していた新羅軍を撃破。

これに対して唐は7000に及ぶ兵力を増援軍として派遣し、倭・百済連合軍への反撃を開始。

そして西暦663年8月、白村江に集結していた唐・新羅連合軍に対して倭・百済連合軍は陸海から突撃攻勢を敢行。倭軍は1000隻の軍船のうち400隻を唐軍の火攻めによって焼失するという大損害を受けて大敗。これによって倭・百済連合軍は崩壊し、各地で戦闘していた倭軍は撤退。百済は完全に滅亡。

その後、百済を滅ぼした唐と新羅は高句麗へ大攻勢をかけ、西暦668年には高句麗も滅亡。

百済と高句麗の領土は唐が支配することとなりましたが、やがて新羅が唐を裏切って高句麗の遺臣を扇動して蜂起させ、さらに旧百済領へ侵攻して唐軍を撃破。結局、旧百済領と旧高句麗領の多くを新羅が統治する形で唐と和睦し、以後新羅は唐の属国となります。

倭では朝鮮半島からの撤退後、唐・新羅の逆侵攻を恐れて本格的に防衛体制を整えます。しかし結局逆侵攻はなく、唐から使節団が訪れるなどし、倭からも遣唐使が派遣されるようになって、両国は友好的な関係を結ぶようになりました。

Tags : 軍事 , 歴史
Posted by r on 2006年11月19日 11:20 edit


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